京大東南研(CSEAS)の月刊ニューズレター「かもがわ便り」3月号の挿入画を担当しました!

2025年3月のニューズレター記事は土佐美菜実氏(ライブラリアン)による「翻訳という根本的な問いに向けて」。紹介されたのは柳父章の『翻訳の思想:「自然」とnature』(平凡社、1977年;ちくま学芸文庫、1995年)

本書では、英語の「Nature」の翻訳語として定着した『自然』という言葉がどのような理解を引き起こしているか、歴史書や文豪達の文章を丁寧に読み解きながらつまびらかにしています。

「Nature」の翻訳語として適当な、「人為でない」という意味をもつ「自然」ということばは、日本古来からの使われ方として、「おのづから」という副詞的な意味合いも同時にもっています。したがって、原語「Nature」の翻訳語『自然』は、翻訳語として定着したことで「Nature」と「おのづから」という、まったく異なる意味合いを同時に背負うことになり、このことが『自然』ということばに接する人々が、それぞれ異なる解釈をしてしまう要因であると筆者は説きます。

ひとつ印象的だったのは、「自然淘汰(natural selection)」ということばの意味についての記載です。原語でいうnatural selectionとは、「natureによる「淘汰」(本書p.88)」のことなのですが、翻訳語の『自然』を介した場合、日本語では「自然(nature)による淘汰」ではなく、「自然な淘汰(おのづから生じる淘汰)」という意味として、当時の識者と読者に理解されていたのではないか、と筆者は指摘します。この場合、日本語の「自然」だけでなく、原語のnaturalということばに対する理解がなければ、原語の意味合いのままにそのことばを理解することは難しいでしょう。

このように、翻訳語を介することで意味合いが変化してしまうことばが、実は私たちが知らないだけで結構あるのではないか。そんなことに気づかされて、肌が粟立ったのでした。

翻訳という根本的な問いに向けて – CSEAS Newsletter

土佐 美菜実(ライブラリアン) 私たちの日常生活では外国語を理解するのに翻訳ツールや生成AIを利用することが今や当たり前になっており、その便利さを様々な場面で享受…

◆挿入画解説◆

「自然」と「Nature」が共通する意味をもちながら、それぞれ固有の意味も有するために全く同一のことばとして扱うことはできないという点を、水に例えて表現しました。

人々が口にする水を、天然の池から汲まれそのまま摂取される水(C=「Nature」)と、ホースに繋がれ継ぎ目からその一部がこぼれ落ちてしまった残りの水(B=「Nature」の翻訳語としての「自然」)、そして天から供給される水(A=日本古来の使われ方の「自然」)として表現しました。

エッセイでも取り上げられている岸本善治と森鴎外の口論を、一見同じ水に見えても味が異なるので、本当の「水」はこれだ!と言い争いになっている様子として描きました。